「shuukaiokurenorunner.hatenablog.com」をご覧になった時、皆さまはどの様に感じられたでしょうか。目にとめて戴いた事を感謝致します。
きっと。「順調とは言えない人生を歩んで来た者が書こうとしているブログ」と感じら
れた事でしょう。全くその通りです。振り返ってみると失敗の繰り返しでした。
立ち止まって、振り返る年でも、もはやあるまい。と自分でも思っています。また、や
り直すにはあまりにも遅すぎる年齢に達しているとも自覚しています。
昭和の前半に背負った負の遺産。平成の時代を通しても解消出来ませんでした。それな
りに、というよりも、自分ではその時々、必死に努力をしてきた積りですが----。
まもなく新元号。心機一転。これを自分を変えるチャンスとして捉えよう。そう思い、
自分の置かれた立場を考えた時「周回遅れのランナー」になりました。
昨年も押しつまった暮、立て続けに起こった信じられない偶然。こんな事があるとは。
長年読ませて頂いて来た無料のメールマガジン。「毎日1分!英字新聞」、を読み終わ
り、なに気なしにクリックした時、文章の中から目に飛び込んできた2つの単語。ハッ
としました。
私の現在ある人生と密接に関連する「2語」が表示されていたのです。それが良いこと
か悪い事かは別として、いつも心のどこかにあり、その文字を見ると、叶えられなかっ
た人生を思い出させる2つの単語でした
ちょうど人生を振り返って、このままでいいのかと自問自答し続けていた時でした。
これは何かの啓示ではないかと思い。熟慮の末、ライターの方に連絡をとらせていただ
きました。考え方、生き方に感動し、主催される講座に参加させて戴き、再起を目指し
ています。
その後もまた,発行者がなに気なしに記されたと思われる文の中に、前記の2つの言
葉と、密接に関連する、あるもう1つの別の、現在は外国になった地名を目にした時、
本当に信じられない思いでした。人生の出会いの不可思議さの始じまりでした。
不思議な出会いはこれだけではありません。
その直後。再び、全く信じられない、あり得ない事が起こったのです。
私は今。こうして、このブログを記していますが、PCは殆ど出来ず、何とかやっ
と、と云う状況です。仕事でメールだけは最低限の操作で、取り敢えず書いて来まし
た。他の事は全て人任で来た罰です。これではまずいと思い、近くの図書館に行き、私
の程度にあったPC操作の本を探しました。
残念ながら私に合うものはなく、読めば益々混乱するだろうと思われるものばかり。
はたしてこれで講座についていけるだろうか。
落胆して図書館を出ようとし、偶然にふと見た眼の先に1枚の掲示。
「写真で語ろう会」と云う市民会館での企画。
一瞬、セピア色に褪せた1枚の写真が脳裏に浮かびました。
昨年5月。90年近い歴史を持つ出版社から、104才になる父を取材させて欲しいと云う
連絡があり。久し振りに探し出した、たった1枚しか残っていない、父の事業関係の写
真です。
私にも人並みに訪れた青春時代。友人達の恵まれた環境と比べて自分の置かれた、厳し
い現実。その写真を眺めて、歯を食いしばって、耐えてきた、そして誰にも見せなかっ
た写真。私が15歳の時のものです。一生、心の中に封印して、だれにも見せない、話さ
ない。と誓ったその写真でした。
私が中学3年の春、日比谷公園で開催された第1回目の展示会の展示ブース準備中のも
のです。(この展示会は現在も名前を変えて継続され、その開催は必ず報道され、多く
の入場者があります。)
当日。人生で最初で、最後と思い参加した「写真で語ろう会」で私がそのセピア色に
褪せた1枚をお見せしたところ、参加の皆様はなんの事なのか、わからずシーンとして
しまいました。少し気まずい雰囲気になり、私は心の中で、参加するべきではなかった
と思いました。それはそうです。他の参加者の皆様は、楽しかった旅行の思い出、ご自
分で苦労されて撮影の瞬間を待った素晴らしい写真などでした。
対して私の写真は褪せた、そのうえ、何か解らない物が写っている、保存状態も必ずし
も良くない1枚の写真。
突然。主催者の写真家が、「こんな写真が残っていたのですか!」と云われたのです。
むしろ私の方がびっくりしました。説明しない限りその業界の人以外はわからないと
思っていたからです。
事情をお聞きましたら、写真家のお父上様が定年まで、今は日本の基幹産業に育った当
分野の一方の代表的企業への最大の納入業者でご活躍されており。写真家ご本人も同業
界に入社。20年近く、ご勤務の後、大学写真部時代の夢を叶えるため写真家として独
立されたとの事でした。一目見て何の製品か解ったそうです。
いずれの企業も父の経営する企業と種々の関係があった所でした。
当時、その業界でこの分野の全製品を一括して製造、納入出来る企業は2社しかなく。
その2社とも,当産業発展の歴史の中に埋没してしまいました。写真家はその企業名は
知りませんでしたが、写真を見て当時の最先端の技術で開発、製造された製品である事
は認識されていた様です。
何年も前の事なので、すっかり忘れてしまいましたが、今回の貴重な出会いの始まりは
結果から考えると、ある本を探しに行った本屋さんにあったようです。目的の本はな
く、書店の棚でふと目にした、文庫本、表題に惹かれました[毎日1分!、英字新聞]。
幼馴染みの何人かが当時まだ海外留学が珍しい時代に。横浜から船で米国へ留学。
父の企業が存在していた時。湘南の海辺に面していた家にはよく米国人の方々が子供
ずれで遊びに来ていました、私も当時小学生~中学生ですぐ仲良しになりました。
その家族の何人かから、高校を卒業したらアメリカへいらっしゃいと云われており、私
もその積りでした。
友人の船を見送って一人で帰る時、何時も、父の企業が順調であったらと云う思いがあ
りました。その様な中で英語への関心は常にありました。
経済的にすっかり疲弊してしまった自分は、生きる事に精一杯で英語を勉強する時間す
らありませんでした。
無一文になって当産業界から離れた父に、勉強や遊びの時間また小遣いを求める事は出
来ませんでした。
倒産に至る経緯を多少知っているからでした。
今でも、当時の通産省の産業政策の犠牲になったと考えています。
倒産のわずか1,5年後、限時立法で機械工業特別振興法が実施され開発銀行から長期低
利の融資が実行され,当産業は急速に後の基幹産業への道を駆け上り始めたからです。
書店で表題を見てすぐ購入し、これなら手軽に勉強出来ると思いました。
大分前に、狭い我が家に本を置く場所も惜しく、他の本と一緒に地域の回収に出してし
まいました。この様な出会いが訪れるとは思っていませんでしたので、残念です。
その後大分時を経て偶然メールマガジン「毎日1分!英字新聞」の存在を知り、無料と
いう事もあり読ませて戴いていました。本の著者とメルマガの発行者が同一とは。
敢えて勉強する時間も持てなかった自分でも、多少英語の理解ができるのは「毎日1分
!英字新聞」を読ませて頂いている結果と思います。継続がなによりなのですね。
私の最初の投稿。なんの知識もなく、やみくもに思いつくまま、記させて頂きました。
今後はちょつと恥ずかしい事ですが、生活のために、年齢とは関係なく仕事をし続けな
ければならない現状を書いてみたいと思います。