何年か前に「後期高齢者」と云う括りの中に入れられて以来、2つの仕事を掛け持ち
しています。
調理補助とポスティングと云う仕事です。
この年でこの2つを掛け持ちしなければならない事情。私自身は当然の帰結として、
受け入れ。別段、苦労とも思ってはいません。過去の生き方を反省することは多くあり
ますが、家族に経済的苦労を掛けている事に大変申し訳なく思いながら、働いていま
す。
父が創成期の某産業界で其れなりの貢献。不運にも急角度の発展に入る、まさに直
前に倒産。当時の通産省の方針に基き同業界の新たな法制化に対応するため設備
投資。わずかの期間に数十社より、不渡りを受け、回収不能。銀行も当産業の成長に
関しまだ疑問符を持っていた時代,つなぎ融資も受けられず。全個人資産を投入、整
理。中3の12月。私にとって人生苦闘の始まりでした。
不渡りを受けたその分野(当時、百数拾社存在)。現存する企業4社のみ。
要望に沿ってこの分野を手掛けなければ、間違えなく存続したと思っています。
もう一方の分野(父の企業の主力はこちらでした)。現在IT化の時代を迎え世
界的にも混沌としている様です。
不遇(自己責任です)の中で何とか精神的には歯をくいしばりながらも、頑張れる
理由の1つは、はるか昔、見に行ったある工場の思い出等が心の支えになっています。
夏休み。父の得意先の工場を見たく、せがんで無理に連れて行ってもらった、確か中学
1年の頃と記憶しています。
東と西にありました。東は父の運転する車で。西は当時の長距離走行に於ける信頼性の
点で、私は車でと頼みましたが、とんでもない時間を要すると、父は反対し、何時もの
ように東海道線で行く事になりました。
東。海に面した工業地帯にある当時の最初の主力工場、日本で初めての量産工場として
建設されたと聞きました。別の日、そこから30kmほど離れたところの西の企業の協力
工場。(その後2か所に移転、現在は西の関連企業になり企業名も変わった様です。)
西。現在は中部地方の中核都市から直接行けますが、当時は途中で東海道線本線から
私鉄に乗り換え、まさに、とことことそこまで、田園の中を行き、珍しい地名の場所に
たどり着くと云う時でした。現在は現地法人として世界中に分散する生産拠点があるよ
うですが、当時全ての工程の一貫生産は国内でもその工場のみと記憶しています。
また現在そこが本社となり,地名もその企業名に変った様です。
進学先としてほぼ決まっていた高校。突然の経済的変化で諦めざるを得ず、進学は
やめようと思っていた時、先生から言われていやいや行った高校。
弁当や売店で売っていたコッペパンを買うお金もありませんでした。昼休みになると校
庭を走って、土手で空腹を忘れるために寝ていました。不思議に、与えられた運命とし
て比較的冷静にとらえていました。
経済的な急変を察し、暫くうちで働かないかと言葉をかけてくれた,駅前の牛乳屋さ
んのおじさん。単に習慣で勝手口の木の箱から取り出し、毎朝飲んでいた牛乳。
朝、3時に起き、まだ外灯もあまりない時代、10分程歩いて牛乳店へ。自転車の荷台と
両脇の頑丈なバックに牛乳ビンを入れ、家庭へ戸別配達。舗装もまだ限られた通りだ
け、漕ぐのも大変、雨の日はその上滑ります。
友達の家に置く時は、「あいつ、まだ寝ているだろうな」、と思ったり。
終わると、おじさんがいつも呉れる牛乳を一気に飲み込み、そのま電車に飛び乗り、学
校へ。最後の授業は途中で抜け出し、再び牛乳屋さんへ。
今度は夕配。喫茶店、スナックなどへ生クリーム等の業務用を配達。
家に帰ると既に夜8:00時過ぎ。翌日3:00時起。殆ど勉強した記憶がありません。
このような生活のなか、世の中の動きからはすっかりとり残されてしまいました。
私自身は、今も世の中に何も貢献出来ないで、ただ生きながらえている。
こんな状況の中でも多少の向上心は残している積りです。
それは現在、日本の基幹産業となった産業の、戦後創成期に、あと半年で105歳を
迎え、大正、昭和、平成、令和を生きる事になる父が、当工業社会のなかで果たした多
少の役割を密かに心の中で誇りに思っていたからです。
「戦後、この分野の創成期の経営者で存命者は貴方のお父さんだけですよ」。父、99
歳。全財産を失い、住む家もなくなり、転居を繰り返し、いつの間にか散逸してしまっ
た父の企業の資料を探していただいた時の、新聞社の編集長の言葉でした。
私も、その後、既にある程度安定した世界シェアを握っていた当産業では,たとえ周辺
の1部品でも参入の余地はないと思い、量産ラインでのセンサー、制御系の開発企業を
目指しました。ある時期まで一定の実績とご評価はいただきましたが、父に続き私も挫
折、親子2代、非力さを恥じています。
兄弟からも全く相手にされない状況です。彼らは私と年もかなり離れ、当時3~4歳で
父の企業の事は知りませんし。ある意味、私の青春の犠牲のうえで、大学生活もなんと
か送れたことなど,とりあえず全く意に介していません。生活も安定しています。
父の理解力、判断力がなくならない内にこの経済的苦境を乗り越え、多少安心させ
家族への迷惑を軽減させたいと云う思い。また当産業が戦後本格的に立ち上がる前に連
れて行ってもらった前述の工場等なっかしい思い出。私がこの仕事(現在、調理補助、
ポスティングのダブル)を次へのステップとして,とりあえず頑張れる原動力です
昭和の前半、図らずも落ち込んでしまった貧困の連鎖の罠、平成の30余年を通じても
解消できなかったこの呪縛、来る「令和」にそれからの解放を目指し、もう少し、この
ダブルワーク(?)で頑張って行こうと思います。「光溢れる明日を目指して!」。